前日譚 『-1の夜』

野々花『それじゃ、明日は予定通りアンタの家の前まで行くから』

水渡「はい。ありがとうございます」

野々花『くれぐれも早く寝なさいよ。浮かれて寝坊なんてしないように』

水渡「……ありえないですよ。浮かれるなんて」

野々花『あっそ。それじゃ』

興味なさげに答えると、先輩はあっさりと電話を切った。
数分ぶりに自室に静寂が戻る。

水渡「………」

4月1日の夜というのは、俺がこの東京で過ごす最後の時間だった。
いずれ戻ってくることはあるかもしれない。しかし高校生としては、もうこの地を踏むことはないだろう。

水渡「はぁ……」

憂鬱な溜息が部屋を満たした。
旅立ちの日の前夜だというのに、どうにも心が重い。

いや、そもそもこれは旅立ちと言えるのか。
むしろ旅をしていたのは今までの方で、これからあるべき場所へと帰るのではないか。

あるべき場所。
俺の故郷、澄園町へ。

水渡「ふるさと、ね……」

薄情なことに、10年前に澄園町を離れて以降、俺たち家族は一度も帰郷したことがなかった。
1年前まで母方の祖父母があの町で暮らしていたらしいが、もはや顔も人柄も朧気だ。

だから正直、澄園町というものに対して深い思い入れがあるわけではない。
新棚学園の新校舎なんてものが建たなければ、一生訪ねようとは思わなかったかもしれない。

それでも、故郷というだけで親近感を覚えてしまうのも確かだ。

身勝手であることはわかっている。
けれど、微かに残った記憶と、色あせた筈の思い出が、俺に郷愁の念を起こして止まないのだ。

緑に包まれた町。
賑やかな人々。
太陽のように笑う幼馴染み。

あの光景をもう一度、と、心のどこかが求めている。

水渡「……母さんは、違ったのか」

訊けないことがある。
なぜ母は、澄園町へ帰ろうとしなかったのか。
なぜ10年もの間、自分の親に顔を見せようとしなかったのか。

あの人は澄園町に対して、何を思い、何を置いて離れたのか。

今となってはもう、知ることはできない。

水渡「………」

母が死んでから、そろそろ半年が経つ。
胸の中の喪失感は、未だ衰えを知らない。

水渡「……ん」

こんこん、と。
自室のドアを叩く音が聞こえた。

水渡「親父?」

水渡父「遅くに悪い。明日の準備できてるか気になってな」

父がドアを開くことはない。
母の一件以降、俺に対して引け目を感じているようだった。

その引け目が杞憂だと、俺は決して言わない。
思ってもいないことを言えるほど、心に余裕がないから。

水渡「……とっくに終わってる」

だからこうしてぶっきらぼうに返事をして、
必要最低限な荷物を詰め込んだリュックの方を見つめた。

あまり物を持ち込むつもりはなかった。
形だけでも、この地で起きたことと決別しておきたいから。

水渡父「つかお前、生徒会長サンの車に乗せてもらうって、一体何したらそんな話になるんだ?」

水渡「……さあ、こっちが聞きたいくらいだ」

誤魔化し半分、本心半分の言葉を口にする。

舞沢野乃花。
社長令嬢にして生徒会長という、何もかもが特別な先輩。

本当に俺は明日、そんな人と同じ車に乗って、澄園町へと向かうというのだろうか。
未だに実感が湧いてこない。

しかし、先程当人から電話で確認があったように、事実ではあるのだろう。
どういう魂胆なのかは知らないが、今は先輩の気まぐれにあやかろうと思う。

水渡父「……そうか……」

扉越しに話題を流すと、父は一度言葉に間を置いた。
本人は気付いていないだろうが、言いにくい本題に入るとき、彼はいつもこういう話し方をする。

水渡父「……念を押して悪いが、遺品整理の件、頼んだぜ」

水渡「わかってる」

母方の祖父母の遺品整理を、妻を思い出したくないからという理由で俺に丸投げした父。

身勝手に思わないと言えば嘘になる。
しかし、何故だかそこまで責める気にもなれない。

きっと俺も、大切な何かから逃げているから。
現実と向き合えないという点で、俺たちは似たもの同士で、そして親子だった。

水渡「……明日、見送りいらないから」

水渡父「心配すんな、朝から仕事だ」

水渡「……そう。じゃあ、おやすみ」

水渡父「ああ、おやすみ。向こうでも元気でな」

水渡 「………ん」

足音が離れていく。
父が一階のリビングへと降りたのだろう。

水渡「向こうでも元気で……か」

別にここでも元気ではなかっただろうに。
母が死んだ日から、あの人は俺から目を逸らしてばかり。

けれど、それでも別に構わない。
今の俺を見つめたところで、そこには空虚があるだけだから。

水渡「……」

俺はあの町で、何を見るのだろう。
からっぽな自分の器を、何かで満たせるのだろうか。

俺は変わるのだろうか。
変わってしまって良いのだろうか。

わからない。いずれにせよ気分は晴れない。
未来に希望を持つには、俺は多くを失いすぎた。
何を希えばいいのか、自分ではわからなくなるくらいに。

水渡「……」

だから、希望じゃない。
期待なのだ。この胸に微かに宿るのは。

望む心ではなく、待つ心なのだ。

どんな形かはわからない。
それでも、俺は澄園町で待つ。
この心の袋小路から抜け出すための何かを。

それと出会えるまでは、たとえ環境が変わっても、きっと現実は苦しく辛い。

現実は今まで通り、立ち止まった俺を容赦なく置き去りにしていく。
俺も今まで通り、突き放された距離に応じて、劣等感を募らせる。

その不安にずっと耐えられるほど、俺は強くはないから。

今は先輩の助言通り、夢の世界への逃避を果たそう。
無理だとわかっているけれど、一刻も早く。

[了]
執 アベレイジ

野々花『それじゃ、明日は予定通りアンタの家の前まで行くから』

水渡「はい。ありがとうございます」

野々花『くれぐれも早く寝なさいよ。浮かれて寝坊なんてしないように』

水渡「……ありえないですよ。浮かれるなんて」

野々花『あっそ。それじゃ』

興味なさげに答えると、先輩はあっさりと電話を切った。
数分ぶりに自室に静寂が戻る。

水渡「………」

4月1日の夜というのは、俺がこの東京で過ごす最後の時間だった。
いずれ戻ってくることはあるかもしれない。しかし高校生としては、もうこの地を踏むことはないだろう。

水渡「はぁ……」

憂鬱な溜息が部屋を満たした。
旅立ちの日の前夜だというのに、どうにも心が重い。

いや、そもそもこれは旅立ちと言えるのか。
むしろ旅をしていたのは今までの方で、これからあるべき場所へと帰るのではないか。

あるべき場所。
俺の故郷、澄園町へ。

水渡「ふるさと、ね……」

薄情なことに、10年前に澄園町を離れて以降、俺たち家族は一度も帰郷したことがなかった。
1年前まで母方の祖父母があの町で暮らしていたらしいが、もはや顔も人柄も朧気だ。

だから正直、澄園町というものに対して深い思い入れがあるわけではない。
新棚学園の新校舎なんてものが建たなければ、一生訪ねようとは思わなかったかもしれない。

それでも、故郷というだけで親近感を覚えてしまうのも確かだ。

身勝手であることはわかっている。
けれど、微かに残った記憶と、色あせた筈の思い出が、俺に郷愁の念を起こして止まないのだ。

緑に包まれた町。
賑やかな人々。
太陽のように笑う幼馴染み。

あの光景をもう一度、と、心のどこかが求めている。

水渡「……母さんは、違ったのか」

訊けないことがある。
なぜ母は、澄園町へ帰ろうとしなかったのか。
なぜ10年もの間、自分の親に顔を見せようとしなかったのか。

あの人は澄園町に対して、何を思い、何を置いて離れたのか。

今となってはもう、知ることはできない。

水渡「………」

母が死んでから、そろそろ半年が経つ。
胸の中の喪失感は、未だ衰えを知らない。

水渡「……ん」

こんこん、と。
自室のドアを叩く音が聞こえた。

水渡「親父?」

水渡父「遅くに悪い。明日の準備できてるか気になってな」

父がドアを開くことはない。
母の一件以降、俺に対して引け目を感じているようだった。

その引け目が杞憂だと、俺は決して言わない。
思ってもいないことを言えるほど、心に余裕がないから。

水渡「……とっくに終わってる」

だからこうしてぶっきらぼうに返事をして、
必要最低限な荷物を詰め込んだリュックの方を見つめた。

あまり物を持ち込むつもりはなかった。
形だけでも、この地で起きたことと決別しておきたいから。

水渡父「つかお前、生徒会長サンの車に乗せてもらうって、一体何したらそんな話になるんだ?」

水渡「……さあ、こっちが聞きたいくらいだ」

誤魔化し半分、本心半分の言葉を口にする。

舞沢野乃花。
社長令嬢にして生徒会長という、何もかもが特別な先輩。

本当に俺は明日、そんな人と同じ車に乗って、澄園町へと向かうというのだろうか。
未だに実感が湧いてこない。

しかし、先程当人から電話で確認があったように、事実ではあるのだろう。
どういう魂胆なのかは知らないが、今は先輩の気まぐれにあやかろうと思う。

水渡父「……そうか……」

扉越しに話題を流すと、父は一度言葉に間を置いた。
本人は気付いていないだろうが、言いにくい本題に入るとき、彼はいつもこういう話し方をする。

水渡父「……念を押して悪いが、遺品整理の件、頼んだぜ」

水渡「わかってる」

母方の祖父母の遺品整理を、妻を思い出したくないからという理由で俺に丸投げした父。

身勝手に思わないと言えば嘘になる。
しかし、何故だかそこまで責める気にもなれない。

きっと俺も、大切な何かから逃げているから。
現実と向き合えないという点で、俺たちは似たもの同士で、そして親子だった。

水渡「……明日、見送りいらないから」

水渡父「心配すんな、朝から仕事だ」

水渡「……そう。じゃあ、おやすみ」

水渡父「ああ、おやすみ。向こうでも元気でな」

水渡 「………ん」

足音が離れていく。
父が一階のリビングへと降りたのだろう。

水渡「向こうでも元気で……か」

別にここでも元気ではなかっただろうに。
母が死んだ日から、あの人は俺から目を逸らしてばかり。

けれど、それでも別に構わない。
今の俺を見つめたところで、そこには空虚があるだけだから。

水渡「……」

俺はあの町で、何を見るのだろう。
からっぽな自分の器を、何かで満たせるのだろうか。

俺は変わるのだろうか。
変わってしまって良いのだろうか。

わからない。いずれにせよ気分は晴れない。
未来に希望を持つには、俺は多くを失いすぎた。
何を希えばいいのか、自分ではわからなくなるくらいに。

水渡「……」

だから、希望じゃない。
期待なのだ。この胸に微かに宿るのは。

望む心ではなく、待つ心なのだ。

どんな形かはわからない。
それでも、俺は澄園町で待つ。
この心の袋小路から抜け出すための何かを。

それと出会えるまでは、たとえ環境が変わっても、きっと現実は苦しく辛い。

現実は今まで通り、立ち止まった俺を容赦なく置き去りにしていく。
俺も今まで通り、突き放された距離に応じて、劣等感を募らせる。

その不安にずっと耐えられるほど、俺は強くはないから。

今は先輩の助言通り、夢の世界への逃避を果たそう。
無理だとわかっているけれど、一刻も早く。

[了]
執 アベレイジ