前日譚 『海月は再びポリプへ』

今日も今日とて、帰りのHRが終わる。
起立、礼、さようなら。
いつも通りの挨拶だけれど、私はそんなに嫌いではない。

そうして退屈な一日に区切りがついたことで、1年3組の教室は脱力した空気と弾んだ声で満たされる。

私も無関係ではいられない。早速二人のクラスメイト――名前は確か、優子と久美子――が話しかけてくる。

優子
「ねー、さっきの先生の話聞いた? 二号館ができるとかなんとか」

詩織
「……ああ、転学の案内の話ね」

久美子
「聞いてたけど全然興味なーい。まず澄園町? って何処」
 
優子
「気になってググったんだけどさ、あれやばいよ。マジでなんもないド田舎。
 いや、これから再開発していくんだろうけどさ。
 何で今こんなとこに建てんのって感じ」

久美子
「うっそ、そんなん誰が行くんだっての」

詩織
「でも、生徒会長は行くみたいだよ」

久美子
「えっ何で?」

優子
「あー、どうせお金持ちの都合ってやつでしょ。あたし達庶民には分からないですよーだ」

詩織
「多分、そんな感じ。
 地方再開発も新校舎も、生徒会長の家と関わり深いみたいだから」

久美子
「へー、金持ち令嬢も大変だねえ。わたしは庶民のままでいいや……」

優子
「アンタには一生縁がないから安心しなって」

久美子
「分からないでしょ、金持ちイケメンの彼氏が出来るかもじゃん」

詩織
「ないね」

優子
「そもそも久美子は彼氏と続いた事ないじゃん」

久美子
「そ、それは偶々いい人がないなだけであって、わたしの責任じゃないっていうか……」

詩織
「はいはい。……それじゃ、彼氏探し頑張ってね。私はそろそろ行くから」

久美子
「ありゃ、詩織はいつも通り図書室?」

詩織
「うん、図書委員の仕事あるから」

久美子
「相変わらず超マジメだねー、詩織は」

詩織
「まぁ、ね」

優子
「サボっても大丈夫そうだけど、まぁ詩織だしね。
 それじゃあ、カラオケは明日にしよっか」

詩織
「ああ、うん。それじゃあ」

そういって、私はその場を後にする。

詩織
「また明日ね」

私たちはそう言った。だから明日も顔を合わせるのだろう。

きっとこれは友情と呼べるものだ。

そこに絆がないのだとしても。

*

廊下で一人別れ、図書室の扉を開く。

先週までは中間テストがあったせいで、自習室目当ての利用客が多かった。
それが終わった今、図書室は嵐の後のように落ち着いている。

静かな図書室に、時折紙を捲る音がやけに響く。

私はそれが好きだった。
高速で脈打つ人間関係から、私を切り離してくれるから。

私は顔が広いわけではないけれど、こうも毎日毎日休むことなく人ばかりと接していると、流石に疲れてしまう。

ここは、私をそこから切り離してくれる独立した空間。
あるのは、紙と時計の針がゆったりと刻む時間。
本に書かれた文字と、それが生み出す個々の主観世界。

つまりは私そのものが、確固として存在している。
だから私は、この整然とした世界が好きなのだ。

詩織
「(さて)」

今、私の手には帰りのHRで配られた二枚のプリントがある。

一枚目は、新棚学園二号館建設の告知。
そして二枚目は、来年以降そこに転学できる申し込み用紙。

二号館を建設するということ自体は、新棚学園の人の多さを鑑みれば驚きはない。
入試倍率も年々上がっており、景気の良さで言えば全国トップクラスと言って差し支えない。

その入試倍率を支える高い進学実績の裏には、学期毎のクラス分けテストという過度に競争心を煽るシステムと、成績上位の生徒たちに過酷な勉強を強制するスパルタ教育があるのだとしても、我が子育成ゲームに夢中の親御さんたちには関係ない。

詩織
「(そんな、物理的にも心理的にも窮屈な学園。
 その二号館の建設地が……”澄園町” ね……)」

聞いた事のない地名だが、都内からでも行ける距離ではあるらしかった。

政府の”地方再開発” の対象に選ばれた、未来ある田舎町。
それ故に、現時点ではコンビニも何もない辺境の地だ。

だからこそ、私はその町に惹かれていた。

学生数が多い新棚学園では、休み時間には学園中が弾んだ声で満たされる。さらに都心部に位置しているため、放課後には渋谷や原宿に出かける人も多い。公私ともに賑やかなスクールライフだ。

だけれども、その賑やかさは同時に人間関係の複雑さを生む。
私達は必ず何らかのコミュニティに属し、その立ち位置に従事しなくてはならない。
そんな群体生物のような暮らしが、ここの学生のスタンダード。

群体生物となった私たちは、進学や進級で環境が変われば、一度個人たるポリプへと戻るけれど、ポリプはすぐに自分の立ち位置を見つけ群体生物となる。
それを無限に繰り返していく。

でもその立ち位置に合わせなければ直ぐに排斥され、完成したコミュニティに入る事も難しく、孤立し一人になる。

人の海を漂っている。まるでカツオノエボシみたいな生命活動。

そんな群体生物として息をしているうちに、私はしばしば私の主観世界が薄れていってしまう様な、自身の存在の稀薄性を覚えていた。

強い繋がりが欲しかった。自分をつなぎとめていられるように。
たった一人でも私の世界に入り込む事を赦せる様な、その人の世界に入り込んでも赦される様な、そんな親友ができないものかと考えていた。

少なくとも、今の私にはできなかった。
表層だけの薄く脆い関係。そこから抜け出せるだけの強い絆を繋ぎたいと思うほど、誰かに懐く事はできなかった。

何故ならその機会は一号館(ここ)には用意されていないから。用意されているのは喧噪と、煩わしい人間関係だけだ。

だけど、澄園町(なにもないばしょ)に行けばそんな煩わしさから抜け出せるのではないか。そう思うと転学というのもそれなりに魅力的ではあった。

そこでなら、私は誰かと絆を繋げるかも知れない。

もちろんリスクはある。
転学しても上手くいかず、それどころか今の希薄な関係性すら失ってしまうというリスクが。

しかし、どうせあと二年もすれば受験なのだ。
高校で構築した関係性なんて、どの道大学に行けば数年とせずに消えるのだから。

私が自分を失うことに比べれば、大した事ではない。

だから、転学書類に”牧瀬詩織”と名前を刻んだ。

[了]
執 ルナ 監修 アベレイジ

今日も今日とて、帰りのHRが終わる。
起立、礼、さようなら。
いつも通りの挨拶だけれど、私はそんなに嫌いではない。

そうして退屈な一日に区切りがついたことで、1年3組の教室は脱力した空気と弾んだ声で満たされる。

私も無関係ではいられない。早速二人のクラスメイト――名前は確か、優子と久美子――が話しかけてくる。

優子
「ねー、さっきの先生の話聞いた? 二号館ができるとかなんとか」

詩織
「……ああ、転学の案内の話ね」

久美子
「聞いてたけど全然興味なーい。まず澄園町? って何処」
 
優子
「気になってググったんだけどさ、あれやばいよ。マジでなんもないド田舎。
 いや、これから再開発していくんだろうけどさ。
 何で今こんなとこに建てんのって感じ」

久美子
「うっそ、そんなん誰が行くんだっての」

詩織
「でも、生徒会長は行くみたいだよ」

久美子
「えっ何で?」

優子
「あー、どうせお金持ちの都合ってやつでしょ。あたし達庶民には分からないですよーだ」

詩織
「多分、そんな感じ。
 地方再開発も新校舎も、生徒会長の家と関わり深いみたいだから」

久美子
「へー、金持ち令嬢も大変だねえ。わたしは庶民のままでいいや……」

優子
「アンタには一生縁がないから安心しなって」

久美子
「分からないでしょ、金持ちイケメンの彼氏が出来るかもじゃん」

詩織
「ないね」

優子
「そもそも久美子は彼氏と続いた事ないじゃん」

久美子
「そ、それは偶々いい人がないなだけであって、わたしの責任じゃないっていうか……」

詩織
「はいはい。……それじゃ、彼氏探し頑張ってね。私はそろそろ行くから」

久美子
「ありゃ、詩織はいつも通り図書室?」

詩織
「うん、図書委員の仕事あるから」

久美子
「相変わらず超マジメだねー、詩織は」

詩織
「まぁ、ね」

優子
「サボっても大丈夫そうだけど、まぁ詩織だしね。
 それじゃあ、カラオケは明日にしよっか」

詩織
「ああ、うん。それじゃあ」

そういって、私はその場を後にする。

詩織
「また明日ね」

私たちはそう言った。だから明日も顔を合わせるのだろう。

きっとこれは友情と呼べるものだ。

そこに絆がないのだとしても。

*

廊下で一人別れ、図書室の扉を開く。

先週までは中間テストがあったせいで、自習室目当ての利用客が多かった。
それが終わった今、図書室は嵐の後のように落ち着いている。

静かな図書室に、時折紙を捲る音がやけに響く。

私はそれが好きだった。
高速で脈打つ人間関係から、私を切り離してくれるから。

私は顔が広いわけではないけれど、こうも毎日毎日休むことなく人ばかりと接していると、流石に疲れてしまう。

ここは、私をそこから切り離してくれる独立した空間。
あるのは、紙と時計の針がゆったりと刻む時間。
本に書かれた文字と、それが生み出す個々の主観世界。

つまりは私そのものが、確固として存在している。
だから私は、この整然とした世界が好きなのだ。

詩織
「(さて)」

今、私の手には帰りのHRで配られた二枚のプリントがある。

一枚目は、新棚学園二号館建設の告知。
そして二枚目は、来年以降そこに転学できる申し込み用紙。

二号館を建設するということ自体は、新棚学園の人の多さを鑑みれば驚きはない。
入試倍率も年々上がっており、景気の良さで言えば全国トップクラスと言って差し支えない。

その入試倍率を支える高い進学実績の裏には、学期毎のクラス分けテストという過度に競争心を煽るシステムと、成績上位の生徒たちに過酷な勉強を強制するスパルタ教育があるのだとしても、我が子育成ゲームに夢中の親御さんたちには関係ない。

詩織
「(そんな、物理的にも心理的にも窮屈な学園。
 その二号館の建設地が……”澄園町” ね……)」

聞いた事のない地名だが、都内からでも行ける距離ではあるらしかった。

政府の”地方再開発” の対象に選ばれた、未来ある田舎町。
それ故に、現時点ではコンビニも何もない辺境の地だ。

だからこそ、私はその町に惹かれていた。

学生数が多い新棚学園では、休み時間には学園中が弾んだ声で満たされる。さらに都心部に位置しているため、放課後には渋谷や原宿に出かける人も多い。公私ともに賑やかなスクールライフだ。

だけれども、その賑やかさは同時に人間関係の複雑さを生む。
私達は必ず何らかのコミュニティに属し、その立ち位置に従事しなくてはならない。
そんな群体生物のような暮らしが、ここの学生のスタンダード。

群体生物となった私たちは、進学や進級で環境が変われば、一度個人たるポリプへと戻るけれど、ポリプはすぐに自分の立ち位置を見つけ群体生物となる。
それを無限に繰り返していく。

でもその立ち位置に合わせなければ直ぐに排斥され、完成したコミュニティに入る事も難しく、孤立し一人になる。

人の海を漂っている。まるでカツオノエボシみたいな生命活動。

そんな群体生物として息をしているうちに、私はしばしば私の主観世界が薄れていってしまう様な、自身の存在の稀薄性を覚えていた。

強い繋がりが欲しかった。自分をつなぎとめていられるように。
たった一人でも私の世界に入り込む事を赦せる様な、その人の世界に入り込んでも赦される様な、そんな親友ができないものかと考えていた。

少なくとも、今の私にはできなかった。
表層だけの薄く脆い関係。そこから抜け出せるだけの強い絆を繋ぎたいと思うほど、誰かに懐く事はできなかった。

何故ならその機会は一号館(ここ)には用意されていないから。用意されているのは喧噪と、煩わしい人間関係だけだ。

だけど、澄園町(なにもないばしょ)に行けばそんな煩わしさから抜け出せるのではないか。そう思うと転学というのもそれなりに魅力的ではあった。

そこでなら、私は誰かと絆を繋げるかも知れない。

もちろんリスクはある。
転学しても上手くいかず、それどころか今の希薄な関係性すら失ってしまうというリスクが。

しかし、どうせあと二年もすれば受験なのだ。
高校で構築した関係性なんて、どの道大学に行けば数年とせずに消えるのだから。

私が自分を失うことに比べれば、大した事ではない。

だから、転学書類に”牧瀬詩織”と名前を刻んだ。

[了]
執 ルナ 監修 アベレイジ

[記事制作:ルナ] [編集:アベレイジ]